<午前十時の映画祭>
「一度、スクリーンで観たかった。もう一度、スクリーンで観たかった。」
- 上映開始時間は<午前10時に限定せず>それぞれの劇場の判断で<午前中の上映開始>となります。
- そのため、上映開始時間は劇場ごとに、また作品によっても異なります。
- また、鑑賞料金も各劇場が設定した料金となりますのでご了承ください。
- ご鑑賞前に各劇場の公式サイトなどでご確認をお願いいたします。
私の住む街:栃木県では「ユナイテッド・シネマ アシコタウンあしかが」と「TOHOシネマズ宇都宮」の2ヶ所で上映している。
あらすじ
明治30年の初秋。
九州小倉の古船場に博奕(博打)で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎(無法松)が舞い戻った。
松五郎は若松警察の撃剣の先生と喧嘩をして頭を割られ、木賃宿の宇和島屋で寝込んでいた。
ある日、芝居小屋へ行くと、木戸番と小競り合いをした腹いせに、同僚の熊吉とマス席でニンニクを炊いて嫌がられをして木戸番と大喧嘩する。
大勢を巻き込んだこの大喧嘩を仲裁したのは結城親分。
周囲の観客に迷惑をかけているとは思いもよらなかった松五郎は、素直に自分の非を心底詫びる。
松五郎はただの悪人ではない、ちゃんと非を詫びることができる、竹を割ったような意気と侠気をもっていた。
日露戦争の勝利に沸きかえっている頃、松五郎は木から落ちて足を痛めた少年を救った。
それが縁で、少年の父:吉岡大尉の家に出入りするようになった。
大尉は、松五郎の豪傑ぶりを知って、彼をとても可愛がった。
酔えば美声で追分を唄う松五郎も、良子夫人の前では赤くなって声も出なかった。
大尉は雨天の演習で風邪をひき、それが原因で急死した。
残る母子は何かと松五郎を頼りにしていた。
松五郎は引っ込み勝ちで気弱な敏雄と一緒に運動会に出たり、鯉のぼりをあげたりして、なにかと彼を励げました。
そんな日々が天涯孤独な松五郎に、生き甲斐を感じさせた。
宮島正弘による4Kデジタル修復
1943年版の本編上映前、解説付き短編上映があった。
この「無法松の一生」という映画をめぐる運命のイタズラがどのように影響したのか。
この映画を撮影したカメラマン:宮川一夫を師に持つ宮島正弘撮影監督による解説。
昭和18年、明日召集されるかもわからない、そんな戦争真っ只中での撮影。
ニトロセルロースがフィルムの材料、爆弾の材料。
映画に回すフィルムは1フィートも無い、そんな時代。
戦争を応援するような映画ばかりが作られていた時代に、この「無法松の一生」が作られていた。
撮りたいものが撮れない、緊張感の中での製作だった。
無念のフィルムカット
戦争未亡人に恋をする、戦時中だから、片思いでもダメだった。
カメラマンの宮川一夫は約10分のシーンを「自分の手」でフィルムをカットした。
普通の男女が恋愛するように、未亡人を想うシーンがことごとく切られている。
戦中は内務省に、戦後はGHQによる検閲によって、いろんなシーンがカットされた。
多くの人たちと時間をかけて作り上げた作品を、自分の意思とは無関係に慈悲もなく切り刻まれる。
これは屈辱以外の何物でもない。
さぞや無念であっただろう。
私も趣味で製作をするので、気持ちは分かる。
撮影・製作時の時代背景を考えると、1943年と1958年、2つ構成はまた別の意味を持つ。
4Kデジタル修復
2020年、パンデミックが猛威を振るい世界中が恐怖した。
日本、アメリカ、ポルトガルと、3つの国をまたいで修復作業が行われていた。
無法松の一生(1943年)(昭和18年)
(阪東妻三郎版)無法松の一生 <4Kデジタル修復版> +解説付き短編上映あり
北九州・小倉を舞台に、喧嘩っ早い人力車夫:富島松五郎の生涯を描いている。
上映時間は99分。
1度目は戦中:内務省による検閲約10分、2度目は戦後:GHQによる検閲で約8分の映像がカットされてしまった。
実質上映時間は80分。
坂東妻三郎
阪東妻三郎さん、田村正和さんの御父様なのね!?
知らなかった。
沢村アキヲ(長門裕之)
子役の長門裕之さん、ものすごく可愛い。
少年の中に「長門裕之」の面影がある。
私の中で長門裕之さんといえばこの印象が強い。
無法松の一生(1958年)(昭和33年)
(三船敏郎版)無法松の一生 4Kデジタルリマスター版
1943年(昭和18年)に伊丹万作の脚本で「無法松の一生」を映画化したが、公開時は内務省、戦後は占領軍の検閲によりいくつかのシーンが削除されてしまった。
本作はその検閲によって不完全となった作品を復活させたいと願った稲垣が、再びメガホンを取ったものであった。
前作から15年、フルサイズ・フルカラーでの上映が実現した。
1943年版は上映時間80分、1958年版の上映時間は103分。
第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。
個人的な感想だが、1943年版ではセリフよりも音楽がよく聞こえた。
1958年版では音楽よりもセリフがよく聞こえた。
三船敏郎
前作は前作で良かった。
そして、今作も良かった。
ものすごく良かった!
芝居小屋でのシーンの松五郎は角刈り、横顔が勝新太郎さんに似ていると思った。
しばらく見ていると、あれ?このシーンは1943年版では無かったよね?というのがいくつかあった。
やむなくカットされてしまったシーンたち。
これらの映像を見ていると、ラストの展開もまた違って見える。
あれはこういう意味を持っているのか、これはこんなにも辛いシーンだったのか、と。
無法松こと富島松五郎
寅さんとか、こちの両さんとか、そういうタイプの大人の男性。
誰に対しても臆することなく、自分らしく生きながらも、人情に厚く、人のために、人の役に立つ生き方を、人に感じさせずにサラリとこなす。
カッコイイ生き方!
昔は喜怒哀楽がハッキリしてる人が多い。
今は喜怒哀楽すらよく分からない人が多い。
そう思った。
特に泣かせる構成じゃないんだけど、感情が込み上げてきて泣ける。
BGMのオルゴールが流れるたびになぜか涙が出る。
文字が読める
その昔、「文字が読めること」は『特別なこと』だった。
なぜ「特別なこと」なのか。
現代のように国民が等しく教育を受けられなかった。
地域性、職業、身分などによって生活に大きな差が生じる。
つまり、文字が読める人は「教育を受けられる立場にいる人」であり「位の高い人」もしくは「金持ち」ということだ。
誰しもが文字を読み書きできるとは限らない、そんな時代があった。
識字率の向上に一役買ったのが義務教育。
教育の義務という言葉が初めて登場するのは明治19年(1886年)に勅令として出された「小学校令」、後戦前期を通して修業年限は異なるものの、小学校を尋常・高等の2段階に分けて各4年制になった。
このうち、尋常小学校の4年間は「保護者に子どもを就学させる義務がある」と規定。
これが「義務教育」の始まりであり、3~6年制の小学校(尋常小学校)が義務教育課程となった。
誰でも教育を受けられることを義務化したのだ。
そのおかげで、文字の読み書きができる人が増えた。
前にテレビで林修先生が「勉強は贅沢だ」と言っていた意味が分かった。
「当たり前」のありがたさ
今の時代、どんなことも「普通」であり「当たり前」になっている。
あらゆることが普通になると、必要性を感じなくなってくる。
必要性を感じなくなると「めんどくさい」「やりたくない」という感情が出てきて『不必要』と判断して少しずつ排除していく。
普通は強要されたわけでもないから、ありがたみを感じなくなり、感謝をしなくなる。
楽しむことを忘れ、煩わしくなるのだ。
お祭り、運動会、催し物といわれることは、本来特別なことなのだ。
特別が普通になることで「価値を無くす」のだ。
必要性のない「普通」は不必要であり、嬉しくもなくありがたくもない厄介なものと化す。
今の言葉でいうと「ウザい」。
「特別」が「普通」になることで「価値」が無くなると人はどうするか。
- 見下す:あなどって相手を下に見る
- 蔑む:あなどり軽んずる、軽蔑する
- 侮蔑
普通・当たり前って強い毒性があるのね、今まで気付かなかった。
この毒は、肉体的な痛みも、視覚的な損傷が無い。
それゆえ自覚するのが難しい。
当たり前とは、痛みを伴わない精神の支配。
ふと思ったこと
食事のマナーや作法が始まったのは、いつだろう?
ちゃぶ台を囲む、吉岡家の人たち。
酒を飲みながらつまみを食す一家の主:吉岡大尉。
背筋を伸ばして正座してご飯を食べる子供:敏雄。
ニコニコ笑いながら嬉しそうに2人の世話をする母:よし子。
何気ない日常の中に、深い愛情が見える。
時間の流れ
小柄で気弱の代名詞だった吉岡のボンボンが青年になり、背丈も大きくなり顔も男らしくなった事で、時間の流れが分かる。
白髪が増え、中年の松五郎。
かたや、相変わらず美しい奥さん。
出会った頃と変わらない美貌だ。
これの意味するのは「生活環境」の違い。
室内にいるのか、屋外にいるのか。
紫外線を浴びる環境に在れば、どんなもので劣化する。
肌の色は褐色になり、シミやシワが増える。
なるほど、よく考えられている。
最後に
15年後に再撮影ということで、かなり近代的な印象を受ける。
モノクロからフルカラー、時間と時代と技術の流れを感じる。
「生きることはこんなにも楽しいことなんだぞ!」
「俺を見てみる、楽しく生きてるだろう!」
そういうのを体現してる大人、それが松五郎だ。
カッコイイ!
そんな人になれるように頑張る!
見返りを求めずに、与えられる人になれるように頑張る!
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