映画「最後の乗客」を観た感想

映画鑑賞の感想文

2024年、SNSを中心に話題を呼んだ「侍タイムスリッパー」。

「侍タイムスリッパー」公開中の2024年のこと、出演者の冨家ノリマサさんのTwitterにこんな投稿があった。

そして、映画に関しては超絶信頼を置いているアカウント:サールナートホール/静岡シネ・ギャラリーさんの投稿。

2024年10月11日公開。

作品の良さがクチコミで広がり、順次公開中だ。

あらすじ

タクシードライバーの間で「深夜、人気のない歩道に立ちすくむ女」のうわさが囁かれていた。

ある夜、タクシードライバーの遠藤は、ハンドルを握り、閑散とした住宅街を流していた。

ふと目に止まるのは、歩道で手を上げる人物。

顔を隠すように乗り込んできた女性が告げた行き先は「浜町」。

いつもと変わらぬ夜、のはずだった。

映画『最後の乗客』公式サイト
深夜のタクシーが乗せたのは、3人の乗客と秘密――。わずか55分の小さな自主映画が起こした奇跡、いよいよ日本全国へ!

キャッチコピー

わずか55分の小さな自主映画が起こした奇跡

キャスト

出演者役柄
岩田 華怜みずき
冨家 ノリマサみずきの父
長尾 純子娘:心の母
畠山 心こころちゃん
谷田 真吾みずきの父の同僚
大日 琳太郎ネタバレゆえ秘密

ぜひ前情報なしでの鑑賞を

なんの前情報も入れずに鑑賞。

冨家ノリマサさんが出演している、これだけの情報だけを手にし、映画館へ向かった。

感想(ネタバレなし)

ネタバレなしで感想を書く。

なにをテーマにしているのかは、Twitterや公式サイトでわかるかと思うので、あえて書かない。

映画が始まると、背景の奥に駅の入口が見える。

少しボヤけているのでハッキリとは見えないが、どうやら「地下鉄」と書いてある。

地下鉄が走るということは、発展している都市ということ。

ここは都会だ、ということがわかる。

縁を感じる

この時期に鑑賞できたのは、なにか縁を感じる。

公開時期は確定していたので、とくに狙っていたわけではなく偶然と思うけど、なにか縁を感じる。

特別な日ではない

映画のテーマになっていることが、これだと思う。

確かに、そういう風潮があるけど、自ら発信しているのはいつも「部外者」だ。

関心があるということを敢えて言葉や文字にする。

一見、とても愛情深くて人情あふれることだが、実はそうではないと気付いた。

忘れたいのではないし、忘れてもいない。

思い出したくない、だと思う。

誰かの善意がキバを剥く、誰かの愛が凶器になる。

特別な日ではないし、記念の日でもない。

余談:昭和の不器用な男

みずきの年齢を考えると、父は昭和の世代だと思う。

その、昭和世代特有といっては過言かもしれないけど、不器用な男が描かれている。

不器用さは人ぞれぞれであり、なにがどう不器用なのかも人に寄りけりだが、共通点はあると思うので書く。

圧倒的に言葉が足りない口下手(くちべた)
感情を出さない・見せない感情と言動が一致していない
謝らない・謝れない非を認めない・受け入れない弱さをに見せない・出さない・感じさせない
会話や説明が超ヘタ身内に不器用・不愛想を全面に出すが、他人(仕事)では人の善さを発揮する
愛情表現がヘタクソ人付き合いもヘタクソ

不器用な男=圧倒的なコミュ障なのかもしれない。

しかもそんな一面を感じさせない見栄っ張り。

そりゃ身内は戸惑うよなー、としみじみ思った。

男性性という概念

昭和には「強い男性像」が当たり前にあり、常識の一部だったと思う。

人前で泣かないとか、女に媚び売らないとか、弱い男はダメとか、男性性を重視していた時代。

「男らしさ」とは「男はこうあるべきだ」という、みんなが持っている共通の固定概念。

しかも、幼いころから「男らしさ」が『絶対的に正しいこと』と教わって育った世代。

だからこそ、男性とは対極の「女性」という言葉を、侮蔑として使うのだろうね(女々しい、女の腐ったヤツ、など)。

植え付けられた虚像

思うに、男性性や女性性は、その人の個性をつぶすための手段なのかもしれない。

統一された概念は、人を支配するための都合よいアイテムになる。

その支配に従う人だけが、正しい。

なぜなら、その概念から外れた者は不適合者になる、ゆえに排除しやすい。

排除するということは、支配力をより正しいものにさせて絶対的な権力となる。

男性の中でも、柔軟な考えを持つ人もいれば、コレはこうなんだからコレ以外は認めないという人もいる。

人の数だけ個性がある、十人十色だ。

それなのに、決まった概念にムリヤリ当てはめるという同調圧力は、立派な暴力的行為だと思う。

虫が怖い=ナヨナヨしている

花が好き=女みたいなヤツ

「いろんな人がいてイイじゃん」という考えは、昭和世代には理解できない・受け入れられないのかもしれない。

これもまたカウンターカルチャー。

変えられない虚像

「男らしさ」という正しいことから逸れることは許されない、という男のプライドなのかもしれない。

正しいことであり、間違ってはいないのだから、何かがうまくいかなかったとしても、それは自分のせいではなく相手が悪い、常に。

接し方や言葉選びなど、変えられないし、変えてしまうと正しいことから逸れるので、できない。

自分を変える、という発想がない。

時代や社会に対して臨機応変に動けない世代、とも言えるのかもしれない。

団塊世代と団塊ジュニア世代

団塊世代の思想を遜色なくそのまま植え付けられたのが、この映画の主人公の団塊ジュニア世代だ。

それが絶対的に正しくて、男尊女卑まではいかずともそれに限りなく近い。

「家事・育児は女の仕事」とか、「女は愛嬌」とか、「男勝り」とか、「女に学問は不要」とか、いまでいう『偏った思想』をゴリゴリに持ち合わせている。

社会や思想が変化し続ける現代には、対応できない。

団塊世代&団塊ジュニア世代の女性

この2つの世代の女性が、韓流スターや現代の男性にハマる理由が、なんとなくわかる。

自分たちの世代の男性と真逆だからだ。

優しいし、女性ファーストだし、思いやりあるし、言葉にしてくれるし、なにより大切にしてくれる。

そりゃ、ハマるわけだ。

昭和オヤジと平成ムスメ

ドラマや映画などでよくあるのが「昭和世代の父親と平成世代の子供」という家族モデル。

団塊ジュニア世代と新人類ゆとり世代、極めて対極にある存在。

家の中で顔を合わせるも、互いに仏頂面、互いの言葉に一触即発ピリつく空気、極めて仲が良くない。

関係性と言えば、同じ場所で暮らすことと、血のつながりであろう。

よくある昭和世代の男性ゆえに、会話や交流、コミュニケーションがうまく取れず、ギクシャクする。

子供にとって親は、人生の先駆者であり大きな存在。

親が持つ男性性・女性性が、子供に合っていないから、コミュニケーションがうまく取れないのかもしれない。

そう考えると、親が持つ男性性・女性性を変えれば、うまくいくかもしれない。

仕事で失敗したとき・うまくいかなかったときは、「なぜこのようなことが起きたのか」原因を追究して、対策を練り、試行錯誤を繰り返し、二度と同じ失敗が起きないように徹底する。

相手を責め立てたり、相手のダメな部分を追求するのではなく、なぜその出来事が起きてしまったか原因を追究することが最も重要。

そのようなスキルは持っているのに、なぜ家族や身内には発揮しないのか。

生きづらさ

いまの若い人は、ありのままの自分をさらけ出し、自分の個性を隠すことなく、自由に生きていて、社会もそれを認めているし、それを受け入れている。

男性でもメイクするし、エステに通うし、美容室にも行く。

男性でもカワイイ女の子になれるし、自分の趣味嗜好をコンテンツとして出している。

昭和世代が言いそうな「いまの若いヤツはダメだな、化粧なんかしやがる、男の風上にも置けねぇ!」というセリフ。

男性性という虚像の正反対に在るものだ。

もしかしたら、声高に多様性が叫ばれる現代では、昭和世代の彼らはものすごく生きづらいのかもしれない。

最後に

シアター内では、鼻をすする人がチラホラいた。

私はというと、まったく感情が出てこなかった。

理解できるけど、感情移入できなかった。

限りなく無に近い自分がいた。

それは、完全に「観客」だからだと思う。

これが当事者・関係者だと、また違うと思う。

感情が機能停止してる訳じゃないと思うけど…。

完全に「部外者」で「他人事」の自分に気付き、とても悲しくなった。

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