映画上映前に「予告ムービー」が流れる。
今後公開される作品、いろんなジャンルの新作映画の告知映像。
その予告映像の中に、この作品があった。
普段はあまり見ることのない自国の作品、邦画。
予告映像の中で、ある人物が言う言葉が強烈に刺さった。
「守ってくれる血が俺にはないねん」
部屋の照明をつけるときにスイッチをパチッと押す、それと同じように私の中の何かが即座に反応し、号泣した。
これは誰の感情なのか?
私の感情なのか、それとも登場人物の感情なのか、はたまた前世などの過去の感情なのか。
こんなにも公開日が待ち遠しかったのは、久しい。
あらすじ
後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。
この世ならざる美しい顔をもつ喜久雄は、抗争によって父を亡くした後、
上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会う。
正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人。
ライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが、運命の歯車を大きく狂わせてゆく…。
誰も見たことのない禁断の「歌舞伎」の世界。
血筋と才能、歓喜と絶望、信頼と裏切り。
もがき苦しむ壮絶な人生の先にある“感涙”と“熱狂”。
何のために芸の世界にしがみつき、激動の時代を生きながら、世界でただ一人の存在“国宝”へと駆けあがるのか?
圧巻のクライマックスが、観る者全ての魂を震わせる―― 。
国宝公式サイトより

登場人物

俳優名 | 役名 | 人物像 |
---|---|---|
吉沢 亮 (少年期:黒川 想矢) | 立花 喜久雄 (花井 東一郎) | 長崎の任侠の一門に生まれ、父を抗争の末に亡くす。 その後上方歌舞伎の名門の長で看板役者・花井半二郎に芸の才能を買われ、単身で歌舞伎の世界へ。 世襲の歌舞伎界の中で才能を武器に、稀代の女形として脚光を浴びていく。 |
横浜 流星 (少年期:越山 敬達) | 大垣 俊介 (花井 半弥) | 上方歌舞伎の名門の御曹司として生まれ、看板役者・花井半二郎を父に持つ。 生まれながらに将来を約束され、歌舞伎役者になることが運命づけられてきた。 喜久雄の親友・ライバルとして共に切磋琢磨していくが、喜久雄が才能を開花させていくにつれ、徐々に葛藤を抱き始める。 |
渡辺 謙 | 花井 半次郎 | 上方歌舞伎の名門の当主で看板役者。 逸早く喜久雄の女形としての才能を見出し、抗争で父親を亡くした喜久雄を引き取る。 息子の俊介同様に歌舞伎役者として育てながら、自身も役者としての地位を確立することを志す。 |
寺島 しのぶ | 大垣 幸子 | 半二郎の後妻・俊介の実の母親で、上方歌舞伎の名門を支える女房。 初めは喜久雄を引き取ることに反発するが、喜久雄の役者としての才能に気づいて育てていく。 |
田中 泯 | 小野川 万菊 | 当代一の女形であり、人間国宝の歌舞伎役者。 若い頃の喜久雄と俊介に出会い、2人の役者人生に大きく関わっていく。 |
永瀬 正敏 | 立花 権五郎 | 喜久雄の父親で長崎・立花組組長。 |
宮澤 エマ | 立花 マツ | 長崎・立花組組長の権五郎の後妻。 血は繋がらないが、若き頃の喜久雄を育てる。 |
高畑 充希 | 福田 春江 | 喜久雄の幼馴染。 喜久雄を追って上阪。 ミナミのスナックで働きながら喜久雄を支える。 |
嶋田 久作 | 梅木 | 歌舞伎の興行を手掛ける三友の社長。 喜久雄と俊介を若い頃から見込んで、様々な大舞台を用意する。 |
三浦 貴大 | 竹野 | 歌舞伎の興行を手掛ける三友の社員。 世襲の歌舞伎に対して、冷ややかな態度をとる。 |
三上 愛 | 藤駒 | 喜久雄が京都の花街で出会う芸妓。 まだ無名の喜久雄の、役者としての才能を予見する。 |
中村 鴈治郎 | 吾妻 千五郎 | 上方歌舞伎の当主。 本作においては、歌舞伎指導も担当。 |
森 七菜 | 彰子 | 歌舞伎役者・吾妻千五郎の娘。 |

上映劇場
歌舞伎の演目
登場する「歌舞伎の演目」を知った上で鑑賞すると、この映画への理解がより深まる。

歌舞伎の豆知識
歌舞伎の知識を知った上で鑑賞すると、この映画への理解がより深まる。

原作小説と漫画
原作は、上・下巻の小説。
それを3時間に凝縮して作品にする。
なにをピックアップして、なにを削るのか、その作業もまた苦難の道。
映像化するにあたり、どうしても省かなければならない部分が出てくる。
個々の原作小説では、そのあたりが丁寧に描かれている。
漫画化もされている。
3時間
2時間54分という上映時間だが、あっという間だった。
一瞬たりとも目を離せない、とても濃い内容だった。
少年期の2人
半二郎に稽古をつけてもらう2人、喜久雄と半弥。
肩甲骨を漢字の「八」の字にする、と厳しく指導する半二郎。
苦痛の表情で立つ、半裸の2人。
このときの立ち方、よく見ると違いがわかる。
この違いは、あえての演出なのか、それとも自然もしくは偶然なのか。
半弥は、少し腰が入っていない立ち方をしている。
美しいお顔
ある人物は、喜久雄に向かって言う。
「ほんと、綺麗なお顔だこと。でも、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね。」
これ、立花喜久雄だけじゃなく、吉沢亮さん自身にも当てはまることだと思う。
なにかで見た吉沢亮さんの「顔だけで売れたくない」という言葉。
この映画とリンクする部分があると思う。
NHK Eテレ「スイッチインタビュー」
【吉沢亮×四代目 中村鴈治郎」EP1】2025.6.20放送
【吉沢亮×四代目 中村鴈治郎」EP2】2025.6.27放送

幕が開ける/幕を引く
日常的に使っている言葉、歌舞伎由来だというのは意外と知られていない。
有名なのは十八番(おはこ)。
二枚目、差し金、正念場、黒幕、どんでん返しなど、いまも普通に使われている。
ある日、舞台上で予期せぬことが起きる。
満員御礼の客席、舞台上でのことを観客に見せるわけにはいかない。
そのとき、舞台上にいる歌舞伎役者が「幕を引け!」と叫ぶ。
見せないために、舞台上を隠すために「幕を引く」。
しかしそれは、言葉がそのまま現実化したものだった。
言葉 | 意味 |
---|---|
幕が開ける | 舞台の幕が上がって演劇が始まること 物事の始まりやスタートを意味する |
幕を引く | 芝居が終わる際に幕を閉じる動作を表す表現 物事の終わりや終焉を意味する |
所作
喜久雄の所作、細かい仕草、体の使い方、視線、動きのすべてが美しい。
女性よりも、女性だ。
1年半の稽古で身につけた、とは思えない。
体のあらゆる部位、すべての関節、ひとつひとつの動き、視線、目の動き、ぜんぶに滑らかさがあり、息を飲むような美しさがある。
手を上げるにしても、手から上げるのではなく、手首から上げるので滑らかさと柔らかさが出て、不思議と時間がゆっくり流れているように感じられる。
喜久雄の覚悟
喜久雄が「覚悟を決める」というシーンがある。
どういう覚悟なのか、何に対する覚悟なのか、誰に対する覚悟なのか、初見ではまったくわからなかった。
その後、家を出ていく喜久雄に対して俊ぼんが言うセリフ、このセリフをどう受け取るのか。
兄弟のごとく育った2人だからこそ、そういう言葉が出るのだろう。
にせもの
とある人物が言う「にせもの(にせもん)」というセリフが、なぜだかすごく苦しかった。
男が女を演じることへの言葉なのか、それとも血筋のことなのか。
自分ではない自分が在ることへの示唆なのか。
在るものと無いもの
あまりにも才能があるゆえに、周囲の人を傷付けてしまう。
なんという悲しき性。
才能を持つ喜久雄は、血筋を渇望している。
血筋を持つ半弥は、才能を渇望している。
どんなに手を伸ばしても、決して手の届かないもの。
個人的感想
本編とは関連性の低いことを、思ったり、考えたり。
優と劣
何かが秀でている人は、反対に何かが劣っている、そうして平均化しているのだと思う。
何かに特化している人は、反対に何かが汎化している。
喜久雄は、芸事に特化しているがゆえに、周囲を傷付けてしまう。
血と才能
歌舞伎の世界において絶対的存在なのが「血統」だ。
現実では、いくら才能があろうとも、最優先されるのは血筋であり、この作品のようなことはあり得ない。
言い換えれば、血を絶やすことは御法度。
しかも、男児をもうけることが絶対だ。
守ってくれる血が俺にはないねん
予告映像でこのセリフを聞いた時、大きな矢でズドンと射貫かれたような衝撃があった。
心臓の、心の奥深くに、グサッと突き刺さったまま抜けない。
何度聞いても、やはり刺さる、泣ける、号泣、嗚咽のごとく。
私自身の生い立ちに、こういった血筋のような出来事はない。
なのになぜ、こうも深く刺さるのか、不思議でならない。
私の中にある、先祖の記憶・経験なのか?
まばたき
立花喜久雄、まばたきが少ない。
目力・眼力を強めるための演出なのかしら?
藤原竜也さんもそう、極力まばたきをしない。
自分に戻るとき
常々思うのが、芸事に生きる人・芸を生業にしている人は、いつ自分に戻るのだろう?
極めた人は、もしかしたら戻れないのかもしれない。
花井東一郎が立花喜久雄になるのは、1日のうち、ほんの僅かな時なのだろう。
観客が観ているのはどっちだろう?
花井東一郎?それとも立花喜久雄?
表に出る自分と、本来の自分。
この2つが乖離しているほど、ストレスは尋常じゃないくらい巨大化する。
パッケージング。
好きなシーン
崩れた化粧で舞うシーン。
夜の帳(とばり)が下りるころ。
ほの暗く青みがかった空の下。
そこにいるのは、立花喜久雄でもなく、花井東一郎でもない。
しかし、花井東一郎でもあり、立花喜久雄でもある。
どちらともいえない、曖昧な存在。
その2つは混ざり合うことは無い
それでも、体に刻まれたモノは自然と出る。
どこを見ているのか。
なにを見ているのか。
はたまた見えないのか。
見ていないのか。
襲いかかる強烈な孤独。
それは、毒にもなるし、薬にもなる。
足掻けば足掻くほど、更に強みを増す、化け物。
孤独。
私の最も好きなシーン。
繰り返す人の営み
私にとって遠い存在の歌舞伎。
演目も知らなければ、歴史も知らない。
歌舞伎の演目は、能や浄瑠璃がもとになっているものが多い。
人間がいる限り、絶えず繰り返す営み。
恋に生き、愛に死に、亡き後も姿を変えて化けて出る。
昔から変わらないもの。
パンフレット
インタビューのページで、まさにその通りと感じた。
歌舞伎とはそういうものだと分かっているけど、うまく説明できない部分を的確に言語化している。
才能がある者もいれば、人より頑張らなければならない者もいる。
やる気が旺盛な者もいれば、妥協を強いられる者もいる。
名誉であると同時に、義務でもある。
特権であり、元凶でもある。撮影:ソフィアン・エル・ファニ
公式パンフレットより
見えない人たち
映画も歌舞伎も、多くの見えない人たちが携わり支えられている。
人目に付く表舞台に立つ者は、ごくわずか。
それ以上の、多くの見えざる人たち。
舞台装置、美術、大道具・小道具、衣装、音楽など、多くの人がひとつの作品に携わっている。
そして、劇場のスタッフなども含めると、ものすごい多くの人たちが関わっている。
喜久雄と俊介:どちらで観るのか
映画を観るにあたり、どちらで観るのか。
喜久雄の心情で観るのか、俊介の心情で観るのか。
どちらの立ち位置で観るのか。
自動車と時代の移り変わり
残酷にも時間は過ぎていく。
楽しかった少年期を過ぎ、切磋琢磨した青年期、多事多難の壮年期、そして老年期。
ときどき登場する自動車、時代によってデザインや形が違うので、時間の変化が分かりやすい。
フェンダーミラーが徐々に運転席に近付いてくるのがイイね。
血統
日本は独自の文化を築いていて、それが途絶えずに続いている珍しい国。
知人が「夫婦別姓は差別」という話をしてくれた。結婚して男性側の姓を名乗る、これが日本のルーツ(起源・根源)。男の先祖が強く入る。夫婦別姓は、男性側の姓に入れない=女は男の姓に入れない=仲間外れにするということ。先祖が誰なのかが辿れる、親→祖父母→曾祖父母……と先祖を辿れる。半身半霊、半分は自分で、半分は先祖、それ以外だと土地も入っている、その土地で生きてきた先人たちの魂。小我、誠我、それは魂。外国ではなぜ個人に番号(ソーシャル・セキュリティー・ナンバー)を付けたのか、それはルーツを辿れないから。移民が多い国は個人のルーツが辿れない。ギリシャ神話は言わば「おとぎ話」、ゼウスの子孫はいない。日本の神話は子孫がいる、天皇の子孫がいる。日本は珍しい国で、革命が起きていない国、ずっと天皇家が続いている。
日本には「戸籍全部事項証明書」というものがある。
これは「亡くなった人」が記録されている。
死亡届を提出すると、死亡が戸籍に反映され、戸籍謄本に『除籍』と記載される。
ゆえに家系図が作れる。
自分の先祖が誰なのかがわかる。
最後に
この作品において、吉沢亮はどこにもいない、いるのは立花喜久雄だ。
決して手に入れられないものを渇望する、あがき。
壮絶な渇きを表現できるのは、本当に素晴らしい。
こんなにも苦しい作品は、なかなかない。
私個人的な意見だが、吉沢亮さんはもっともっと素晴らしい役者になると思う。
激情タイプの人物を演じさせたら、彼の右に出る者はいないと思う。
俳優として更なる高みへ、そのためには、これまた個人的な意見だが、人としてもっと乱れてほしい。酒で大失敗するとか、痴情のもつれとか、破天荒さが人間味を濃くしていくと思う。いろんな「人間の欲」を経験することで、あらゆる出来事が芸の肥やしになり、いろんな人を演じることができるのだと思うけど、その破天荒さは、かなりしんどい茨(いばら)の道、ものすごいストレスであり難行苦行。それらがもたらすものが、俳優をより輝かせると思う。
エンディングテーマ「Luminance」。
冒頭の音を聞くだけで、鑑賞時の感情が一気に込み上げてくる。
時間が止まっている中で、音だけが鳴り響く。
目を閉じても、暗さの中には、美しく舞う喜久雄の姿が、見える、そこに居る。
光り輝きながら舞う花弁のように、音がヒラヒラと舞い落ちる。
「イントロを聞くだけで即泣ける曲」にランクインした。
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