どうしてもこのテーマの作品は気になってしまう。
重くて惨たらしいテーマに惹かれてしまうのはなぜだろう。
私の興味関心を引いてやまない、負の歴史。
この映画は、とある家族の日常を映したホームドラマ(のような作品)。
広い敷地、立派な家、手入れされた庭にはプールや温室もある。
職務に励む父親、家を守り子育てをする母親、育ち盛りで活発な子供たち。
裕福な家族たちを支える数人のお手伝いさん。
誰が見てもあこがれる絵に描いたような理想の家族。
しかし、この家族の住む家がどこにあるのか、父親の職業がなんなのか、を知るまでは。
シアター内が明るくなるまで席を立たずエンドロールまでしっかり見てほしい。
この記事はギリネタバレなしで書いています。
あらすじ
空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。
そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。
時は 1945 年、第2次世界大戦下のポーランド・オシフィエンチム郊外。
アウシュビッツ収容所の所長:ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。
その暮らしは、美しい庭と食に恵まれた平和そのもの。
しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。
その時に観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か?
壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?
平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?
そして、あなたと彼らの違いは?
The Zone of Interest(関心領域)
「Zone of Interest」は、ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュヴィッツ強制収容所群を取り囲む周囲40平方km(4000ヘクタール)の地域を表現するために使った言葉。
強制収容所に地域住民が接触できないようにするため、そこにもともと住んでいる人は排除し、農地も接収した。
その区画の農地で収容所囚人を労働させ、農作物で儲けを出していた。
4000ヘクタール、わかりやすく表現すると「東京ドーム約855個分」になる。
東京ドームだとわかりにくいので、東京23区だと「江東区:42.99 km²」に近い。
キャスト
ルドルフ・ヘス | クリスティアン・フリーデル | アウシュヴィッツ収容所の所長 |
ヘートヴィヒ・ヘス | ザンドラ・ヒュラー | ルドルフの妻 |
上映映画館
オープニング
このような始まり方、ものすごく斬新で未経験だ。
これから何が始まるのか、まったく想像できないし、何やら不穏な雰囲気。
なんともいえない、表現しにくい不穏な音が空間に響く。
前後、左右、あらゆる方向から音がする。
シアターという閉鎖的な空間、何とも言えない不穏な音、この状態がいつまで続くのかわからない不安感。
この状態から、どのくらいの時間が経過しただろうか。
とても長く感じる不穏さの奥から、少しずつ違う音が聞こえ始めてくる。
ある家族の日常
川辺でのピクニック。
絵に描いたような、家族愛が見える仲良し家族の日常。
優しくて、穏やかで、温かい家族の日常。
なぜかスクリーンの方向、前方向からしか音が聞こえない。
天井、左右、後方から音がしなくなる。
なんでだろう、意図的なものなのか?
影の意味
「夜の明かり」が木々を影に変え、ルドルフ邸に影を落とす。
暖色の、夜の明かり。
窓の位置、明かりの位置、これらからわかる。
最重要アイテム「音」
この作品において「音」は最重要アイテムだ。
あらゆる音が意味するのは何なのか。
私は五感の中でも「音」が優位に動く。
ゆえに、この作品はおぞましい。
重低音
多くのシーンで、わずかに重低音が聞こえる。
まとわりつくような、追いかけてくるような、耳の奥でずっと響いているような。
それがものすごく不快でならない。
ずっと聞いていると、おかしくなりそう。
見えないものの見せ方
音による演出。
視覚で見えているものとはまた別の見え方をする。
視覚以外での演出に特化している。
スクリーンに映し出される「向こう側」の演出が、説明が無くても事細かく理解できる。
無意識に、かつ意図的に、聞きたい音を選んだうえで、聞いている。
選んでいる
人は、聞きたい音を選んで聞いている。
雑多な場所でハッキリと聞こえるのは、自分がその音(言葉など)を気にしているから。
その音に関心があるから。
なにに関心を持って聞いているのか。
なにに無関心で聞いていないのか。
鳥のさえずり
馬に乗って森に出かける父が息子。
父は息子に、鳥の鳴き声を説明する。
ほら、あれは〇〇だよ
あっちは〇〇だ
どんな音を聞いていて、どんな音を聞いていないのか。
音と距離
音の大きさ、音量で「それ」との距離が明確にわかる。
音は1秒で約340m進む。
いま見ている映像から「音までの距離」を計算できる。
この演出は、本当におぞましい。
明確な違い
この映画には大きく分けて3種類の人間がいる。
ドイツ人、ユダヤ人やロマ族、地元民のポーランド人。
肌の色など視覚で区別できないので、誰がどちら側なのかわからない。
しかし、視線や仕草などの動き方やセリフでわかる。
妻が大切にしている家
ルドルフ一家が住んでいる家。
妻:ヘートヴィヒが幼いころから描いていた憧れの家、この場所は妻にとって楽園そのものだった。
夫がいて、子供たちがいて、何不自由ない生活と、手入れされた広い庭。
誰もが憧れるような理想的な家、どこに建っているのかを除けば。
美しく咲く庭の植物
妻が丹精込めて作った自慢の庭には、いくつもの植物が生い茂っている。
ハーブや野菜、色とりどりの花々。
咲き誇る花々からは、とても良い香りがする。
これらが元気に生きているのは、妻が手間をかけて整えているから。
たっぷりと水を与え、丁寧に雑草を取り除き、養分を与える。
徹底した管理によって、選別されている。
美しい花は生かされ、雑草は駆除される。
作中に出てくる花、これにどんな意味があるのだろうか。
ルドルフの視線1
庭のプールで楽しく遊ぶ子供たちを見守る、父としての視線。
収容所の中で周囲を見渡す、所長の視線。
視線としては同じもの、両者はなにが違うのだろう。
ルドルフとヘートヴィヒの会話
ルドルフとヘートヴィヒは「未来」の話をする。
「また連れて行って」
「戦争が終わったら農場をやりましょう」
そう遠くない未来の話を、希望をもって話している。
3つの視点
スクリーンに映し出される映像について。
こういった視点での表現はあまり見ない。
まず定点カメラによる撮影。
カメラが人物を追わない。
ゆえに、のぞき見しているような感覚。
常に「誰かの目線」の位置。
俯瞰で見ているかのような位置。
ドキュメンタリーを観ているような。
人物を追う動きをするのは2回だけかな?
3つの視点についてはネタバレになるので割愛。
- ルドルフ一家の人々
- ●●●
- 〇〇〇
夜の風景
真っ暗な夜なのに、窓ガラスの向こうはオレンジ色に染まる。
まるで夕焼けのような鮮やかなオレンジ色。
その色が、高い位置で揺らぐ。
それが何を意味するのか。
少しずつ見えてくる歪み
手押し車で運ばれてくる荷物。
その荷物を選ぶ婦人たち。
高級な毛皮のコートを羽織る婦人。
ずっと泣き叫ぶ赤ん坊。
不安そうについてくる犬。
コレクションを並べる息子。
おもちゃで遊ぶ息子。
夜に眠れない娘。
気付いた祖母。
息子2人がじゃれあって、閉じ込めて、音の真似をする。
なにかが、どこかが、ハッキリと見えないけれど、明確にゆがんでいる。
優生思想
いろんなところに優生思想が盛り込まれている。
人種、ヘートヴィヒの庭、動物たちなど。
洗濯物を取り込む
後半、家の中でなにかに気付いて洗濯物を取り込むシーン。
天気が荒れているでもないのに、スクリーンにノイズのようなものが映る。
それの正体は…。
洗う
洗うという行為は、キレイにするためにする。
つまり、汚れを落とすことを目的としている。
汚れは穢れ、にかかっている。
穢れを落とす行為、洗う。
「洗う」には「浄化」の意味も含まれている。
ルドルフの視線2
オラニエンブルグでのパーティーにて。
ルドルフは見上げている。
どこを見ているのか。
視線の行方はどこなのか。
その意味はなんなのか。
ルドルフの視線3
ふと、ルドルフが廊下で立ち止まる。
二度見するような素振りで。
ここで観客と●●●。
左側を凝視している。
ジーッと、見ている。
その瞬間、ドキッとして時間が止まる。
ルドルフは何を見ているのか。
映画文法でいう左は「未来」。
関心
「荷」として扱われ、処分されて、無関心の対象であった彼ら。
廊下に張り出されたものには、顔や名前などの「個人を特定する情報」が記されている。
ここで初めて、彼らは人間として認識され関心を得たのだ。
彼らによって、その場所が地獄であり、墓地でもある。
存在の意味
見えないものは存在しない。
これは哲学的な考え方。
意識的に見ないものも存在しない。
意識した瞬間に存在するのだ。
なので、意識的に「意識しない」ことで存在を無くしている。
人間は順応性の高い生き物だ。
順応性とは、どんな環境でもすぐに対応できる能力のことで、外部の環境に合わせて自然に変わっていくことである。
なにを受け入れて、なにを排除しているのだろうか。
取捨選択
多くの音が聞こえるこの映画。
誰がどんな音を聞いているのか。
誰がどんな音を聞いていないのか。
何気ない動作の中にそれが反映している。
ふと思う、私は何を聞いていて、何を聞いていないのか。
聞きたい音を聞いているとき、それ以外の音はBGMと化し、ノイズとなって情報を遮断される。
無意識に、選んでいる。
何を拾い、何を捨てるのか。
無意識に、意図的に、自動で選んでいる。
感受性
人間は、幼いほど感受性が豊かなのかな?
この作品でも、幼い人物ほど色濃く反応している。
「生きる」という経験を重ねていくと、感受性が鈍くなるのかもしれない。
見えない世界、五感から情報を受け取る能力、そして感情。
大人になるにつれて、鈍感になるのかもしれない。
無関心と距離
物理的距離が限りなく近くとも、精神的距離は限りなく遠い。
すぐ隣にいるのに、どこか遠くにいるような感覚。
それが無関心。
関心と無関心
時として沈黙は許可になる。
時として黙認は許可になりうる。
時として無関心は許可になりえる。
そこに隠されているのは「積極性」。
無言 | 物を言わないこと。 | ||
無口 | 口数の少ないこと。おしゃべりでないこと。 | ||
寡黙 | 口数が少ないこと。 | ||
暗黙 | 口に出さないで黙っていること。 | ||
沈黙 | 黙り込むこと。口をきかないこと | 音を出さないこと。物音もなく静かなこと。 | 活動をせずにじっとしていること。 |
実は身近にある関心領域
こうした無関心は、意外と身近にある。
それらとの関係性や関連性は違えど、どこにでもある。
先日、こんなことがあった。
たしか、時間は午後6時くらいのこと。
職場フロアの奥でパソコン作業をしていた。
ふと、どこからか小さく音が聞こえる。
これは警報のベルだ、何度か聞いたことのある音だ。
すぐさま職場の外に出る。
道路向かいに郵便局がある、そこから警報ベルがけたたましく聞こえる。
郵便局の出入り口の上部、赤いランプが点滅している。
すぐさま近所の交番に電話するも出ない、近くの警察署に電話するも出ない、110番通報した。
その間に、何度か警報ベルが鳴る、けたたましく鳴り響く。
郵便局の前を下校中の中学生が何人も通り過ぎる、大人も通り過ぎる。
多くの人が聞いているはずの大きな音の警報ベル、誰しもが通り過ぎていく。
110番通報をした際に「警報の誤作動で鳴ることがあり、今までも何度か鳴ったことがある」と告げる、現場に警官を向かわせるとのことなので電話を切る。
私のスマホが鳴る、電話相手の警官が状況を知りたいと言うので「職場がすぐ近くなので現場に行って事情を説明します」と告げる。
すぐさま駆け付けた警官2名に状況と事情を説明する。
- 警報が鳴った時間
- 赤いランプ点滅
- 不審な車両、不審者は居ない
- 窓ガラスが割られるなどの破損は見られない
- 過去にも警報ベルが鳴ったことがある(誤作動とのこと)
これらのことを説明したあと、通報者ということで私の個人情報を紙に書いた。
そのとき、雑談として以下のことを警官に話した。
- (その日はとても暑い日)職場の出入り口を締め切ってエアコンを作動させていた。
- 職場の奥で作業していると警報ベルが小さく聞こえた。
- 外に出ると警報ベルが大きく聞こえた。
- けたたましく鳴り響いていた。
- 近所の人・歩いている人は絶対に聞いている。
- それなのに多くの人が普通に通り過ぎて行った。
- 多くの下校中の中学生も、歩いている大人も。
- 警報ベルを聞いているはずなのに、通り過ぎた。
- みんな無関心だった。
これを聞いた警官は小さく「あぁ…」と声を漏らした。
それはどの感情から来る言葉なのだろうか。
驚嘆、失望、悲観、無念、落胆、遺憾、嘆き、憂い、それともまた別の何かなのだろうか。
最後に
いままでにないタイプの作品。
終始、苦虫を噛み潰したような、しかめっ面で見ていたから、顔が疲れた。
気付くと、顔を横に向けて視線だけスクリーンに向ける、という観づらいであろう姿勢で観ていた。
文字通り「顔をそむけたくなる」、無意識に体が反応したのだろう。
精神的にも疲れた。
2度も見るもんじゃないね、この作品は。
なんとも言えない不快感が込み上げてくる。
ある意味、ホラー映画よりおぞましい。
さすがA24スタジオ。
鑑賞後の不快さが噴火のように爆発しそうだ。
気持ち悪いとか、気分悪いとか、そういうたぐいの感情ではなく、ただただショックだった。
鳥のさえずりがトラウマになるくらいに、ショックだった。
こんなにもショック状態になっている自分に驚いている。
駅のホームで響くメロディが「鳥のさえずり」の駅がある、その音を聞いて蘇ってしまう。
こうした過去の出来事を思い返すとき、いま私たちがいるのは絶対安全で、過ぎ去った昔のことであり他人事だと認識している。
ルドルフたちと私に違いはあるのだろうか、というか同じではなかろうか。
この映画を観て、強く思ったこと。
それは「日本語しか話せない」ことが良いと思えたこと。
多言語を習得していないことを「良かった」と思ったこと。
もし多言語を習得していたら、いま以上に不快感に満ちているだろう。
そして、私たちの日常にも潜む関心領域。
隣近所に誰が住んでいるのかもわからない現代。
あなたは「自分の中の関心領域」に気付けるだろうか。
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